南海110年のあゆみ

日本で最初の民営鉄道

 明治15年、当時大阪財政界の雄として重きをなしていた藤田伝三郎氏、松本重太郎氏他19人が発起人となり、大阪堺間鉄道が発起された。わが国では最初の純民間資本による私鉄である。明治17年(1884年)6月16日に認可を受け、同年11月に社名を阪堺鉄道に改称、明治18年12月29日に難波〜大和川北岸間7.6kmが蒸気鉄道として開業した。釜石鉱山から鉄道設備の払い下げを受けたことにより大幅に経費を縮小できたが、838mmという変則軌間での開業となった。明治21年5月15日に大和川の架橋により、当初の計画通り大阪と堺が結ばれた。明治25年には需要の増加に伴い難波〜住吉間が複線化された。

“南海”の誕生

 明治22年5月に堺と紀ノ川を結ぶべく、紀泉鉄道が発足。堺での阪堺鉄道との接続や、1067mm軌間で建設される紀泉鉄道にあわせて阪堺鉄道の改軌が話し合われ、ついには2社の分立は不利益だとして、明治26年7月4日に両社の合併契約が結ばれた。しかし、当時不況だったことから建設がうまく進まずにいると、新たに大阪と和歌山を結ぶべく紀阪鉄道が発足した。そのため、阪堺側は紀阪鉄道と合併交渉にかかり、紀泉鉄道と紀阪鉄道は合併し紀摂鉄道となった。社名はその後、南陽鉄道を経て現在につながる南海鉄道となった。

和歌山市まで全通・大阪乗り入れ

 南海鉄道は堺〜和歌山間の着工にあたり、明治30年10月1日に堺〜佐野(現・泉佐野)間、続いて11月9日に佐野〜尾崎間を開業した。いっぽう、難波〜堺間の改軌工事も完成し、12月15日から難波〜尾崎間の直通運転を開始した。また、この時、住吉〜堺間が複線化された。明治31年9月30日に阪堺鉄道は解散。難波〜堺間は南海鉄道となった。同年に難工事であった孝子峠越えも完成し、10月22日に紀ノ川北岸の和歌山北口まで開業した。
 和歌山まで開通したものの今ひとつ業績が振るわなかったため、大阪側でも利用者の増加を図ろうと、明治33年10月26日に天下茶屋から天王寺までを結ぶ支線が建設された。明治34年10月5日から大阪〜住吉間の直通運転が開始された。この時、本線の列車運行に支障をきたさないように天下茶屋〜住吉間に第3線が増線された。
 明治36年にようやく紀ノ川架橋が完了し、和歌山市まで開業した。同時に紀和鉄道(現・JR和歌山線)との連絡線が作られ、難波〜紀和鉄道の二見、さらに南和鉄道の五条まで直通運転された。

電化と複線化

 大阪市電や阪神電鉄の電化開業に影響を受けて、南海でも電化に対する動きが起こり、明治40年8月21日に難波〜浜寺(現・浜寺公園)間が電化された。この時、浜寺は浜寺公園に改称された。同年11月11日に天王寺線も電化された。同時に複線化も進められ、電化に先駆け明治40年7月5日に堺〜浜寺間が完成。明治44年4月14日には浜寺公園〜葛葉(現・高石)間の電化と複線化が同時に完成した。同年9月1日に葛葉〜貝塚間の電化が完成、10月16日葛葉〜佐野間の複線化が完成した。和歌山市までは孝子トンネル掘削の関係から、複線化が遅れ、電化は明治44年11月21日に完成。複線化が完成したのは大正11年12月2日である。

大阪高野鉄道との合併

 明治26年10月27日、南海鉄道堺と橋本を結ぶべく、堺橋鉄道が発足。明治27年6月29日に社名を高野鉄道に改称した。その後、起点が住吉(現・住吉東)に変更され、工事は大小路(現・堺東)から開始。明治31年1月30日に大小路〜狭山間が開業した。続いて、4月2日に狭山〜長野(現・河内長野)間が開業した。大阪側では、起点が道頓堀(現・汐見橋)に決まり、明治33年9月2日に道頓堀〜大小路間が開業した。しかし、沿線人口が少なかったために業績はよくなく、高野鉄道の事業を引き継ぎ、目的である高野山までを結ぶために、明治39年11月9日に高野登山鉄道を発足させた。明治40年10月15日に高野登山鉄道は高野鉄道の事業を全て引き継いだ。
 高野登山鉄道でも電化の動きが起こり、大正元年10月10日に汐見橋(道頓堀から改称)〜長野間を電化した。延長工事も進み、大正3年10月21日に長野〜三日市(現・三日市町)間、大正4年3月11日に紀見峠越えも完成し、橋本まで電化と共に開業した。同年4月30日に社名を大阪高野鉄道に改称。また、紀ノ川の砂利輸送のため、9月1日に橋本〜紀ノ川口間の貨物線を開業した。高野山まで延長しようとしたが、和歌山水力電気が敷設権を持っていたので、大正5年1月29日、新たに高野大師鉄道を発足させ、敷設権の譲渡を受けた。工事が始まってまもなくの大正11年9月6日に両社とも南海鉄道に合併され、高野線となった。

高野山を目指す

 南海になった後も工事は継続して進められ、大正13年11月1日に橋本〜学文路間、12月5日に学文路〜九度山間、大正14年7月30日に九度山〜椎出(現・高野下)間が順次開業されていった。また、同年3月に岸ノ里(現・岸里玉出)に南海線への連絡線が完成していたので、難波〜高野下間の直通運転が行われた。高野線の複線化は、まず、大正13年3月18日に住吉東〜我孫子前間が行われ、9月8日に岸ノ里〜住吉東間、10月28日に汐見橋〜木津川間が順次完成し、翌14年6月8日に我孫子前〜堺東間、15年12月1日に西天下茶屋〜岸ノ里間が完成した。堺東以南は昭和3年6月に堺東〜西村(現・初芝)間、昭和13年12月11日に西村〜長野間が完成した。
 大正14年3月26日に高野下から高野山までを建設するために子会社として高野山電気鉄道が設立された。山岳区間のため難工事であったが、昭和3年6月18日に高野下〜神谷間、翌4年2月21日に神谷〜極楽橋間、5年6月29日に鋼索線と順次開業していった。高野山登山鉄道は開業時は架線電圧1500Vであったため、600Vの高野線とは直通できなかった。そこで、昭和7年4月に600Vに降圧を行い、難波から極楽橋まで直通運転できるようになった。

大阪市内の高架化と複々線化

 大阪側では将来の需要増に対して輸送力増強をはかるため、大正15年12月3日に天下茶屋〜粉浜間、昭和6年12月19日に粉浜〜住吉公園間を複々線化した。昭和4年には、難波に南海ビルディングが建設されている。
 天下茶屋以南は複々線化されたものの、難波〜天下茶屋間が複線のままであったため、列車増発のネックとなっていた。そこで、難波〜天下茶屋間も高架化と共に複々線化されることになった。関西線と市電との交差が問題となったが、関西線をオーバークロス、市電は地表(それまでは市電が南海をオーバークロス)を走らせることで決着がついた。まず、昭和12年11月1日に東側2線が完成。翌年9月1日に西側2線が完成して難波〜住吉大社間が複々線となった。

加太電気鉄道の合併

 和歌山市と加太を結ぶという考えは以前からあったが不認可に終わり、ついに明治44年1月10日に軽便鉄道法の施行によって加太軽便鉄道として発足。明治45年6月16日に和歌山口〜加太間を蒸気鉄道として開業した。大正2年9月には紀ノ川に架橋して南海鉄道の和歌山市に隣接する和歌山口に乗り入れた。昭和5年に電化して、社名も加太電気鉄道に改称した。昭和17年に南海鉄道と合併して加太線となった。

ライバル鉄道との合併

 明治42年12月24日に波速電車軌道を合併し、上町線となった。
 大正4年6月21日、並走してデッドヒートを繰り広げていた阪堺電気軌道を合併し阪堺線・平野線となった。
 昭和15年12月1日、戦時体制となり、阪和間ノンストップで所要45分の超特急や、南紀直通列車の運転で南海を脅かしていた阪和電気鉄道を合併し山手線としたが、それも僅かで、昭和19年5月1日に国鉄に強制買収された。

戦時統合・多奈川線の開通

 戦時体制が続く中、南海鉄道も関西急行鉄道と合併することになり、昭和19年3月3日に合併契約を結んだ。昭和19年6月1日に両社は合併し近畿日本鉄道となった。同時に多奈川の軍需輸送のために、南淡輪(現・みさき公園)〜多奈川間の多奈川線が開業した。

新発足 南海電気鉄道

 終戦により戦時体制が終わり、再び近畿日本鉄道から独立することになった。そこで、戦時中も独立していた高野山電気鉄道を昭和22年3月15日付けで南海電気鉄道と改称し、南海鉄道の頃の路線や車両を引き受けるという形で同年6月1日に独立した。

和歌山港線の開通

 戦後、和歌山県が和歌山港を再築する際に臨港鉄道を整備することになった。南海が和歌浦に至る敷設免許を有していたため、和歌山県が一部区間を譲り受けて、久保町〜和歌山港(現・築港町)間の臨港線を建設、臨港鉄道として認められない和歌山市〜久保町間を南海が建設して、昭和31年5月6日に和歌山港線が開業した。同時に四国航路が開設された。
 昭和45年、材木輸送のために和歌山港〜水軒間を延長したが、材木輸送がトラックに変わってしまったため、ホームを新設し、昭和46年3月6日から旅客輸送を開始した。この時、連絡線乗り場が西に移設されたので、和歌山港駅も西に移設し、旧和歌山港は築港町に改称された。

加太線のルート変更

 戦時中に加太線で貨物輸送が増加した際に、紀ノ川橋梁(加太線用)が軽量構造のため重量列車が通れないとして、昭和19年10月1日に本線の紀ノ川〜東松江間に貨物線が建設された。昭和24年に電化され、大型車両の入線のため、昭和25年7月25日に旅客輸送も紀ノ川経由に切り替えられて、梶取信号所が設置された。このため、以前の和歌山市〜東松江間は北島支線となった。しかし、昭和25年9月3日のジェーン台風により紀ノ川橋梁が激しく痛んだため、昭和30年2月14日に和歌山市〜北島間が廃止、残った東松江〜北島間も昭和41年11月30日に廃止された。なお、加太線での貨物輸送は昭和59年に廃止されている。

堺の新線切り替え

 戦前、堺付近には堺と龍神の2駅があった。町の中心にあったのは龍神のほうで、急行も龍神に停車していた。昭和20年に空襲によって両駅は被害を受け、龍神は復旧されたが、堺は休止されていた。昭和30年4月21日に付近の曲線緩和のため新線に切り替えられると共に堺と龍神が統合され堺となった。

和歌山電気軌道の合併

 明治44年、和歌山と山東を結ぶべく山道軽便鉄道が発足。大正5年、大橋(橋向丁付近)〜山東(現・伊太祁曽)間が開業した。大正6年に大橋〜中ノ島(紀和駅付近)間を延長した。しかし、紀勢線の建設が具体化し、クロスすることから、大正11年、田中口〜中ノ島間を廃止し、田中口〜東和歌山(現・和歌山)間を建設した。昭和6年に社名を和歌山鉄道に改称し、伊太祁曽(山東から改称)〜貴志間を延長した。昭和16年に東和歌山〜伊太祁曽間が電化され、昭和17年に伊太祁曽〜大池(現・大池遊園)、昭和18年に大池〜貴志間が順次電化された。昭和32年、和歌山市内に軌道線を持っていた和歌山電気軌道に合併された。しかし、昭和36年、和歌山電気軌道が南海に合併されて、軌道線は和歌山軌道線、鉄道線は貴志川線になった。和歌山軌道線は自動車の普及と共に昭和46年に廃止された。貴志川線はそのまま残るが、南海でも他の線と離れた離島的存在である。

輸送力増強工事

 戦後、沿線開発により輸送量が増大し、輸送力増強をはかるため、昭和40年から計画されていた1500V昇圧を、高野線は昭和48年10月7日、南海線は10日から実施。これにより、旧型車が姿を消した。
 難波でも6連対応から10連対応に改造する計画が打ち出された。工事は3期に分けて行われ、2階にあるホームを西側から順次減少して使用しながら、3階に新たなホームを作る形で進められた。まず、昭和49年10月27日に第1期工事として6・7・8番線が完成。続いて昭和51年11月27日に第2期工事の5・4・3番線が完成。昭和55年11月21日に第3期工事の1・2番線が完成して、今日の9面8線の難波駅が完成した。工事途中の昭和53年11月に「なんばCITY」がオープン。この時に、等寸大のロケットを置いたロケット広場ができている。

大阪市内の高架化

 南海線の難波〜天下茶屋間は昭和の初めに高架化されていたが、続く天下茶屋〜大和川間約5.4kmが高架化されることになった。天下茶屋付近は地下鉄堺筋線の地下構造物の工事のため後に回され、玉出〜大和川間の工事が先に始まった。複々線区間であったので、内側2線によって営業しながら外側2線を高架化。昭和52年4月10日に完成し、同時に住之江車庫も高架化されている。その後、内側2線に高架化にかかり、昭和55年6月15日から使用を開始し、高架化が完成した。

高野線の複線化

 戦後、高野線沿線には次々とニュータウンができ、高野線は通勤路線となっていった。北部の開発余地がなくなると、開発の目は山岳区間に向けられた。しかし、河内長野以南は急カーブの点在する単線で20m車が乗り入れられなかったため、河内長野〜橋本間の路線改良と複線化が行われることになった。
 まず、昭和49年3月24日に河内長野〜三日市町間が開通。紀見トンネルのある天見〜紀見峠間は、まず、新紀見トンネル(単線)を掘削して昭和51年4月4日に新トンネルに切り替えられ、その後旧トンネルを断面拡幅して、昭和54年5月26日に複線開通した。翌55年5月12日に紀見峠〜御幸辻間が単線で新線に切り替わり、56年11月22日には林間田園都市が開業し、昭和58年6月5日、千早口〜天見間の開通と同時に複線開通した。同年12月14日に三日市町〜千早口間が途中まで複線となって新線に切り替えられ、翌59年3月6日に複線開業した。同年9月1日に美加の台が開業した。平成6年7月21日に御幸辻〜橋本間が単線で新線に切り替えられ、翌7年8月30日に複線開通した。また、両駅の間に小原田車庫が建設され、平成8年11月24日から使用を開始した。

軌道線の分離と天王寺線の廃止

 モータリゼーションの進展で、各地の軌道は廃止が相次いでいたが、南海の大阪軌道線でも地下鉄谷町線の延伸に伴い昭和55年11月27日に平野線が廃止。阪堺線・上町線は同年12月1日、新たに設立された子会社の阪堺電気軌道に譲渡された。
 昭和41年に新今宮が開設されたことにより天王寺線の存在意義が薄らいでいた。そのため、昭和59年11月17日に地下鉄堺筋線の延伸工事に伴い、天下茶屋〜今池町間が廃止され、残った今池町〜天王寺間も平成5年3月31日に廃止された。

堺市内の高架化

 堺市内を南北に走る南海線は東西に走る道路を遮断して交通渋滞の原因となっていた。そこで、大和川〜石津川間約4.5kmが高架化されることになった。大和川〜湊間は西側に用地が確保されていたので、そこに複線の高架を建設。湊〜石津川間は東側に1線分用地を確保して、上下線を1線ずつ東にずらし、元上り線上に上り高架線を建設し、完成後に元下り線上に下り高架線を建設した。昭和58年7月3日に上り線が高架に切り替えられ、昭和60年5月7日に下り線が高架に切り替えられて、高架化が完成した。

岸和田市内の高架化

 岸和田市内の高架化は、まず、岸和田駅が高架化されることになった。東側に1線仮線を設置して上下線を1線ずつ東にずらし、元上り線上に上り高架線を建設して、平成4年5月17日に切り替えられた。その後、元下り線上に下り高架線を建設し、平成6年7月6日に切り替えられて、高架化が完成した。このあと、駅舎の上に駐車場が建設されている。

天下茶屋付近の高架化

 地平線のまま残っていた天下茶屋〜玉出間も、いよいよ高架化されることになった。高架化に先駆けて、南海線をオーバークロスしていた高野線が東西に分断され、昭和60年6月16日より汐見橋線は仮設ホーム発着となった。そして、複々線の両外側に1線ずつ仮線を設置し、南海線・高野線とも1線ずつ外側にずらして、内側2線の高架線を建設。平成5年4月18日に南海線が高架に切り替えられた。この時、400mしか離れていなかった岸ノ里と玉出が統合され、岸里玉出となった。続いて外側線を建設して高野線の上り線が平成6年10月28日から、下り線が平成7年11月1日から高架に切り替えられて、完成を見た。なお、汐見橋線は平成7年8月10日に新ホームに移っている。
 また、天下茶屋にあった車両工場が昭和57年3月1日から千代田に移転している。

空港線の開業

 大阪湾泉州沖に関西国際空港が開業することが決定してから南海では利用客の輸送のため、泉佐野より分岐して前島(仮称)でJRと合流し、共に空港に向かう空港線を建設することになった。泉佐野〜りんくうタウン(仮称・前島)間を南海が、りんくうタウン〜関西空港間を空港会社が建設し、南海が第2種鉄道として平成6年6月15日に開港前輸送を開始。同年9月4日の空港開業と共に空港輸送を開始した。
 空港輸送のために専用の特急車両が製作され、「ラピート」として登場。難波では8番線の降車ホームを9番線として整備し、ラピート専用のホームにしている。

2002年6月1日 更新